研究員Report_08
「男鹿ナマハゲロックフェスティバル
(音楽イベント)

にぎわい空間研究所
主任研究員 / 視覚伝達研究員 塙 崇之 

ゼロから生まれた奇跡の夏フェス
〜優れたコンテンツ力と
地域との共創による市場創造〜

 


 

 今回、研究の題材として取り上げる「OGA NAMAHAGE ROCK FESTIVAL(男鹿ナマハゲロックフェスティバル、以下、男鹿フェス)」は、ノウハウのない素人集団が、ロックリスナーの市場がごく限られた秋田県男鹿市という過疎地で、十分な資金もない状況でロックフェスを開催し、1万人以上を動員しながら継続し続けているという驚くべき事例だ。なぜ、「ノウハウゼロ」「資金難」「脆弱市場」という三重苦のもとで、市内ターゲット人口の実に2倍を超える集客に成功したのか? その秘訣を明らかにしたい。
 
 まず、ロックフェスを取り巻く状況を見ていこう。日本の音楽業界ではライブコンサート市場が右肩上がりで拡大している。平成22(2010)年に1,280億円だったコンサート市場は急伸し始め、平成25(2013)年には2,318億円、そして平成27(2015)年には3,186億円に達している(図表1)。音楽ソフトの生産金額が平成10(1998)年の6,074億円をピークに減少を始め、現在約3,000億円の市場で横ばい状態が続いているのとは非常に対照的だ(図表2)
 

図表1:コンサート市場の推移
出典:一般社団法人コンサートプロモーターズ協会発表の統計より作成

 

図表2:音楽ソフトの生産高と音楽配信売上高の推移
出典:一般社団法人日本レコード協会発表の統計資料より作成

 

 
 ソフト市場が低迷している背景にはインターネットと無料動画配信サービスの普及によって、無料で音楽が聴ける環境の一般化があった。だが、その一方で、ライブ市場は爆発的な急成長を遂げている。
 
 その要因は、メールやSNSなどデジタルツールによるコミュニケーションの普及が加速するなかで、人々は本能的にリアルな場での体験を欲しているからである。リアルな場で行われる質の高いエンターテイメントに人々は心を震わせる。まさに、それがライブコンサートなのだ。
 
 この急伸する音楽ライブ市場の要因のひとつが「音楽フェスティバル」の浸透である。音楽フェスは複数のアーティストが出演するので観客からすればお得感があり、アーティスト同士の競演などソロのライブでは味わえない醍醐味もある。それゆえ、コンセプトやラインナップが優れたフェスは動員力にも優れる。とりわけ、夏の音楽フェスの増加が顕著だ。平成27(2015)年度は7月・8月の2カ月間で91件の夏フェスが開催され、延べ開催日数は169日に上った(※1)。平均すると1日あたり2.7件の夏フェスが開催されているのだ。
 
 全国各地で開催されている音楽フェスには大きく3種類ある。まず、アーティスト主催のフェス。カリスマ性の高いアーティストが交流のあるアーティストに出演を呼びかけるものだ。2つ目はプロモーター主催のフェス。日頃、アーティストたちのライブを企画している興行会社が企画を立て、コンセプトに合ったアーティストに出演を要請、フェスを実施していくものである。
 
 そして3つ目が実行委員会による主催だ。主に地域振興などを目的として、地域の行政、有志の団体や個人よって委員会を組織し、フェスを実施する。主催者は音楽興行においては、言わば素人集団であり、集客力のあるアーティストを揃えるのは容易ではなく、また動員にも苦労するケースが多い。
 
 夏フェスはもちろん、年間を通じて音楽フェスが乱立し、数多くのイベントが同じ日に重なっている今、実行委員会主催のフェスをめぐる環境は必ずしも芳しくない。今回取り上げる男鹿フェスもまた、実行委員会主催による音楽フェスである。その名の通り、秋田県男鹿市で開催されているロックフェスティバルだ。
 
 男鹿フェスのスタートは平成19(2007)年11月。男鹿市民文化会館の小ホールでわずか400人の規模から始まり、4年目のイベントでは850人にまで動員を伸ばした。平成22(2010)年からは屋外に会場を移し、千人規模のイベントを実現。平成26(2014)年には2日間開催となり、屋外での7回目の開催となる平成28(2016)年は、2日間で延べ来場者数が約1万2,000人に達した(※2)
 
 約1万2,000人と言えば武道館をほぼ満杯にする規模の動員である。ロックを聴く中心世代は20歳代から30歳代。平成22(2010)年の国勢調査によると、男鹿市におけるこの年代の人口は5,529人(※3)。地元のロックマーケット人口の2倍にも及ぶ人々を集客しているのだ。
 
 男鹿市はかつて、木材の出荷、石油の精錬、観光業などで栄えてきた歴史がある。だが、近年は人口減少と産業の衰退が著しい。平成7(1995)年に4万1,416人だった人口(※4)は平成28(2016)年9月30日現在で2万9,217人まで減少した(※5)。労働人口(15歳〜65歳で働ける人々の人口)も平成7年からの15年間で約2割減少し、平成22(2010)年には1万5,818人にまで落ち込んでいる(※6)
 
 男鹿フェスの実行委員会は、こういった過疎の街を活性化することを目的として、ロックフェスを実現し、さらには動員と開催規模を拡大し続けているのである。男鹿フェスはなぜ拡大しているのだろうか? 現地で調査をした結果、下記の要因があることが判明した。
 
 
ロックフェスとしてのコンテンツ力(商品力)
◎ アーティストファースト(アーティスト第一主義)によるラインナップの強化
◎ ロックフェスとしての個性を貫くことによるフェスとしてのブランド向上
◎ アクセスや会場環境の向上による、来場者の参加障壁の除去
 
 
ロックフェスを共に創り上げる力(共創力)
◎ 行政、産業、ボランティアなど地域の人々の巻き込み
◎ SNS活用による情報の拡散
◎ 毎年継続によるフェスとしての認知度アップ
 
 
 10年間に及ぶ男鹿フェスの取り組みは、地元へ様々なかたちでの波及効果を与えている。
それらを検証すると大きく3つのカテゴリーに分類できる。
 
 
数量的に計測できる経済波及効果
・フェスに出店する飲食店の売上アップ
・宿泊施設の宿泊稼働率アップ
・温浴施設や水族館などの観光施設の集客増加
 
 
新たな市場の開拓
・フェス運営参加者同士の新規ビジネスの発生
・フェスをきっかけとした新規事業の発生
・秋田県周辺でのロックライブマーケットの創出
 
 
地域ブランドの向上
・男鹿市の認知度アップ
・地域への誇りと愛着の醸成
 
 
  こういった大きな成果を生み出している男鹿フェスだが、その道のりは決して平坦なものでなく、赤字が続いた時期もあった。しかし、確実に言えるのは、男鹿フェスは平成19(2007)年からの10年間にわたる取り組みによって、秋田県と隣県におけるロックリスナーの市場を創出してきたのである。
 
 人口減少による地域の音楽マーケットの激減というハンデを抱えながらも、イベントを続け地元の若者たちに質の高いロックのライブを届け続けてきた男鹿ナマハゲロックフェスティバル。ノウハウと資金、そしてロックの市場がほとんどないという三重苦の状況にあったとしても、アーティストファーストの姿勢で集客力の高いアーティストを揃えながらフェスとしての商品力を磨き続け、地域の人々や観客とともに引き起こした「共創」の力を総結集すれば、新たな市場を創造できることを男鹿フェスは証明しているのだ。
 
 
出典:
※1 『月刊レジャー産業資料』(2015年10月号、綜合ユニコム)「特集 集客イベントランキング2015」より
※2 男鹿ナマハゲロックフェスティバル実行委員会発表より
※3 男鹿市ホームページ 市勢統計要覧 人口/世帯 より算出
http://www.city.oga.akita.jp/index.cfm/12,10259,c,html/10259/20151216-084000.pdf
※4 男鹿市提供資料より
※5 男鹿市提供資料および男鹿市ホームページ 「人の動き」より
http://www.city.oga.akita.jp/index.cfm/1,html
※6 男鹿市提供資料より
 
 
 

 研究Report_08

新たな祭、ロックフェスを創る
〜過疎地の障壁を突破し、1万人以上を集客〜
Vol.01

男鹿ナマハゲロックフェスティバル(音楽イベント)

編著:にぎわい空間研究所編集委員会
写真提供協力:男鹿ナマハゲロックフェスティバル実行委員会
 

 
 

 平成28(2016)年7月30日・31日の2日間、秋田県男鹿市にて「OGA NAMAHAGE ROCK FESTIVAL(男鹿ナマハゲロックフェスティバル)Vol.7」が開催された。会場は三方を海に囲まれた船川港の埠頭。100m×200mの敷地に、ステージ、飲食ブース、物販ブースなどが配置されている。
 
  男鹿ナマハゲロックフェスティバル(以下、男鹿フェス)は、その名の通り「ロック」にこだわったフェスである。男鹿フェスVol.7では、山嵐、ザ・クロマニヨンズ、Dragon Ash、ORANGE RANGE、10-FEET、MONGOL800、RIP SLYMEなど豪華なラインナップが実現した。この他、The BONEZ、MONOEYES、HEY-SMITH、OZROSAURUSなどの通好みのアーティストたち、そして、WANIMA、キュウソネコカミ、打首獄門同好会といった新進気鋭のアーティストたちも登場する。
 
 
 
 
 
 会場には東北全域、そして関東からも来場者が詰めかけている。
 
「地元の山形ではライブが多くないので、これだけのお気に入りアーティストが参加するフェスがあるのは嬉しいです」(30歳代男性、山形県天童市)
 
「お目当てのバンドを観るために来ました。観終わったら、5時間かけて地元まで帰ります」(女子高生、岩手県盛岡市)
 
「フジロックやライジングサンなど、有名なフェスへ家族で行きたいのが本音。でも予算的に無理なので、男鹿フェスなど東北開催のフェスを色々と回っています!」(30歳代男性、岩手県盛岡市)
 

 
 
 2日間の動員数は約1万2,000人。今年はイベント開始から10年目の年であり、屋外会場での開催は7回目である。屋外会場での開催では初めてのチケット完売(2日目)も実現した。ロックを聴く中心層は20歳代から30歳代だが、男鹿市ではその世代の人口は5,529人。これは平成22(2010)年の国勢調査の数字なので、現状ではさらに減っていることが見込まれる。男鹿フェスは同市におけるロックの潜在市場の2倍以上に及ぶ集客を実現したのである。
 
 今でこそ、東北地方を代表する音楽フェスティバルにまで成長した男鹿フェスだが、その誕生と成長の道のりは決して平坦なものではなかった。そして、その実現のストーリーにこそ、賑わいづくりの極意とも言える秘訣の数々が隠されているのだ。
 
 

 
 
 

風光明媚な男鹿半島
主要産業は農林水産業と観光
 
   まず、男鹿フェスの舞台となる秋田県男鹿市について説明しよう。男鹿市は秋田県の最西端、日本海に突き出る男鹿半島に位置する。三方を海で囲まれる市域(2万4,109ha)の多くは山地と森林が占める。主な産業は農業と漁業だ。農業では米のほか、和なしやメロン、漁業では冬のハタハタやベニズワイガニが有名である。また、山地が海岸線に迫る風光明媚な景観、そして県内では数少ない温泉郷など、観光も主要産業である。
 
   男鹿市は明治時代に材木の出荷港として栄え、その後、日本鉱業㈱(現・JXエネルギー㈱)の船川精油所が操業するとともに、石油備蓄基地も建設された。だが、その後は大企業の誘致などが進まず、平成12(2000)年には製油所も操業を中止。地場の農林水産業、そして観光業が雇用の中心となっていった。
 
 

男鹿市の地図。日本海に面し、三方を海に囲まれる。秋田市へは電車で約1時間の距離。

 
 
ニーズの変化で、苦戦を強いられる観光業
歯止めのかからない人口減少
 

 
 男鹿の観光業が最も栄えた時代、秋田県内の観光地と言えば、十和田湖、田沢湖、そして男鹿半島だった。温泉を求めて団体客が詰めかけ、大型の観光ホテルが次々と建った。だが、時代は変わり消費者のニーズは多様化していった。社員旅行や地域の団体旅行は減り、個人旅行が主流となった。また、日帰り温泉も増えて、秘境にある温泉地まで足を伸ばす動機は薄れていったのである。
 
 こういった逆風のなか、男鹿市の観光産業も苦戦を強いられていく。ここ数年は冬期に休業する施設が増えるとともに、老舗の旅館が倒産し、国民宿舎も閉鎖した。産業の停滞は人口減少にも如実に現れた。平成7(1995)年に4万1,416人だった男鹿市の人口は平成28(2016)年9月30日現在、2万9,217人まで減少。労働力人口も平成7(1995)年の2万153人から平成22(2010)年には約2割減の1万5,818人まで落ち込んでいる。
 
 男鹿ナマハゲロックフェスティバルは、衰退する日本の地方を象徴するかのような、この街で行われているのである。
 
 大規模なフェスは決して1人の力では実現できない。だが、1人が「やろう!」と言い出さなければ実現できないのも事実である。男鹿フェスにも「言い出しっぺ」がいる。実行委員長であり、アーティストの出演交渉を含めたフェスの企画全般を担当する菅原圭位氏(㈱433プランニング社長)だ。
 

男鹿フェス当日のJR男鹿駅前と付近の商店街の様子。商店街で営業を続ける店舗は数えるほどで駐車場も目立つ。

 
 

何かをやりたいと漠然と思い、アメリカへ
現地で起業し、秋田とのつながりを持った菅原氏
 

男鹿フェス実行委員長の菅原圭位氏。
アメリカでの経験は自身の視野を広げてくれたと語る。

 菅原氏は昭和44(1969)年に男鹿市の西側に位置する海岸線の集落で生まれた。家の目の前は海。背後には山が迫っている。幼い頃から海で遊び、山を駆け巡った。秋田市内の高校に進学し、地元企業に就職をした。よく、実家に友だちを招いた。自分が生まれ育った場所の素晴らしさを伝えるのが大好きだった。

 
 25歳の時、独立して何かをやりたいと漠然と思い、会社を辞めてアメリカへ渡った。ロサンゼルスを拠点に英語学校の学生からスタートして、交友関係を広げていった。1990年代後半の当時、日本ではスニーカーなどアメリカブームが起きていた。菅原氏は会社を興し、ファッション関連の貿易業を営むようになった。
 
 取引先も広がってきた頃、日本のアパレル会社から「日本でモノづくりがしたい。菅原くんの地元、秋田には縫製工場があるのでは?」と問い合せがあった。菅原氏は帰国の折りをみて男鹿市をはじめ秋田県内の縫製工場のルートを開拓し、日本国内での製造の体制を整えていった。
 
 
 
地域を活性化するために何かやればいい
「音楽フェスをやらないか」という一言
 
 
 ある時、男鹿市で縫製工場を営んでいた会社が廃業することを知った。いつかは男鹿に帰ろうとしていた菅原氏は好機と捉えて、この工場を事業継承したのである。平成13(2001)年12月、菅原氏は6年間暮らしたアメリカから帰国した。
 
 菅原氏が帰国し、男鹿市で事業を始めると地域の若手経営者の会から誘いがかかった。当初は必要性を感じていなかったが、帰国から何年かが経ち、参加するようになった。
 
 会に参加することで交友関係も広がったが、活動に対して次第に物足りなさを感じるようになった。活動と言えば、定期的に集まって酒を飲むことだけなのである。せっかく地域の若手経営者が集まっているのであれば、地域を活性化するために何かやればいい。そう思った菅原氏が口にしたのは、「音楽フェスをやらないか」という一言だった。
 
 

風光明媚な男鹿の景色。
菅原氏の行動の根底には男鹿の良さを人に伝えたいという気持ちがあった。(写真提供:男鹿市観光協会)

 
 
宮古島で見たロックフェスのある風景
男鹿でも同じことができないかという思い

 
  アメリカに滞在していた当時、菅原氏はロックバンドの「山嵐」のツアーに同行して、通訳などをする機会を得た。メンバーの武史氏とは特に仲良くなり、交流はその後も続いた。菅原氏の帰国後、武史氏は男鹿に毎年遊びに来ていた。
 

 当時、神奈川県の湘南エリアを拠点に活動する山嵐は地元を盛り上げるために、「湘南音祭(しょうなんおとまつり)」を企画。平成17(2005)年から賛同するアーティストとともに、ライブハウスでのイベントを重ねながら、湘南・江の島での野外フェス実現を目指していた。
 
 菅原氏と武史氏は、男鹿の風景を眺めながら、「ここで音楽フェスのようなことをやれたらいいな」と話していた。だが、同時に2人だけでは何もできないことも分かっていた。
 
 菅原氏にはひとつのイメージがあった。沖縄県の宮古島で開催された「MIYAKO ISLAND ROCK FESTIVAL(ミヤコ・アイランド・ロック・フェスティバル)」を訪れた時のことだ。島に上陸すると島民総出でロックフェスを応援している。島中にフェスのフラッグが立ち、フェスに来たと伝えると地元の人々が大歓迎してくれる。「ここには幸せな時間が流れている。男鹿でも同じことができないか」。菅原氏はそう思ったと回想する。
 

山嵐の武史氏(写真中央)。実行委員会と男鹿フェスを実現し、平成27(2015)年には男鹿市から表彰された。(写真提供:男鹿市)

 

 有志の個人で実行委員会を結成し、
市民文化会館小ホールで男鹿フェスVo.0を実現

 

  Vol.0が開催された男鹿市民文化会館の案内板。  
屋外イベントを目指し踏み出された第一歩。

 男鹿でロックフェスを開催する。その提案に地元団体の若手経営者の反応は3つに分かれた。
 
① 大賛成。その意見を待っていた。
② まぁ、賛成。やるなら手伝う。
③ 絶対反対。赤字になったらどうする。余計なことはしなくていい。
 
 意見は分裂したが、賛成派もいる。そこで菅原氏は団体で実施することを諦め、有志の集まりによる実行委員会を組織することを発案した。自身は実行委員長に就いた。
 
 こうして、平成19(2007)年11月に「男鹿ナマハゲロックフェスティバル Vol.0」が開催される。会場は男鹿市民文化会館の小ホール。最初から屋外でフェスを行うのは難しいので、屋内会場で経験を積むことになった。屋外での初回をVol.1とするために、Vol.0とカウントした。出演は山嵐をはじめとする4アーティスト。スタンディングの会場に約400人の観客が詰めかけた。
 
 
 
 
実行委員会に火を点けたライブでの感動
あのアーティストが男鹿に来る!
 
   男鹿フェスVol.0は収支的には赤字だった。だが、副実行委員長である吉田喜継氏(㈲吉田板金店社長)は「とにかくやってよかった」と当時を振り返る。吉田氏は現在、フェス当日の会場運営、行政との事務手続き、会場構成の図面作成などを手がける男鹿フェスの中心人物だ。
 
  「実を言えば、最初はイベントをやるにしても音楽でなくてもよいと思っていた。当時、俺たちは30代の半ば。音楽もテレビで流れるものぐらいしか聴かなくなっていた。実際、山嵐と言われても知らなかったしね。でも、ライブを開催してみて、アーティストたちの演奏を生で聴いてみると、すごく感動した。その感動が、実行委員に火を付けた感があります」
 
 感動で火がついた気持ちをさらにヒートアップする出来事が起きた。「菅原の口から、ORANGE RANGEの名前が出た。俺たちでも知っているビッグネームが男鹿に来る。Vol.0.5は是が非でもやらねば、と思いましたね」(吉田氏)。
 
 平成15(2003)年にメジャーデビューしたORANGE RANGEは、平成16(2004)年にNHK紅白歌合戦出演、平成18(2006)年にはFIFAワールドカップのテーマソングを担当し、同年末には2度目の紅白出演を果たした。言わば、誰もが知っている全国クラスのアーティストが男鹿にやって来るのだ。
   

男鹿フェスVol. 0の会場風景。実行委員会は若者が生の音楽を求めている手応えをつかんだ。

 
 
スタンディングで800人の定員を設定
男鹿市では見られない「異常事態」が発生
 

                         

 
   「男鹿ナマハゲロックフェスティバル Vol.0.5」の開催日は平成20(2008)年5月に決まった。会場は同じく市民文化会館小ホール。男鹿フェスVol.0の定員は400人だった。だが、それは椅子を並べた時の座席数であり、スタンディングであれば収容人数を増やす余裕は十分にあった。消防法を調べたところスタンディングでのコンサートを行う場合、20cm×20cmが1人分の面積となる。小ホールでも単純計算で1,100人を収容できることが判明したのだ。実行委員会ではPAブースなど機材の面積を考慮に入れ、定員を800人とした。
 
 チケットは10分たらずで完売した。市内での販売分については、土曜日の発売に対して、木曜日の夕方から並ぶ人が現れた。先頭の人物は埼玉県から来た。発売当日には300名が行列するという「男鹿市では見られない異常事態」(吉田氏)が発生した。ライブ当日、800人がひしめき合う超満員の会場を見た実行委員たちは「屋外の大きい会場だったらもっと観客を入れられたはず」と悔しがったという。
 
 男鹿フェスVol.0.5を終えた頃、実行委員会に天野貴明氏(㈱天喜建設専務、現・社長)が参加する。菅原氏、吉田氏とともに、男鹿フェスの中心メンバーのひとりである。天喜建設は総合建設業を営んでおり、地元では大手の会社。市内の飲み屋で菅原氏と吉田氏に実行委員会に誘われたことが参加のきっかけだった。だが、天野氏は後に屋外のフェス会場におけるステージ周り以外の建物や構造物の設営を手がけるとともに、アーティストの送迎手配など重要な役割を担当することになる。
 

ライブホールをイメージし、オールステンディングで800人の動員に成功した男鹿フェスVol.0.5。

 
 
ふたたび完売を達成した男鹿フェスVol. 0.99
超満員の会場で得た勢いで屋外開催を決断
 
 男鹿フェスVol. 0.5を成功に収めた実行委員会は半年後の平成20(2008)年12月に「男鹿ナマハゲロックフェスティバル Vol. 0.9」を開催する。いよいよ屋外への最終ステップである。だが、『告白』がオリコンチャート4位にランクインしたFUNKY MONKY BABYSを擁しながらも、チケットは完売に至らなかった。
 
   実行委員会は、屋外での開催は時期尚早という判断を下して、平成21(2009)年10月に「男鹿ナマハゲロックフェスティバル Vol.0.99」を開催した。湘南乃風、ET-KINGをラインナップし、850人を動員し、ソールドアウトを達成した。この勢いを得て、実行委員会は屋外フェスの第一弾となる「男鹿ナマハゲロックフェスVol. 1」の開催を決断するのだ。
 
 
 ■男鹿フェスVol.0〜Vol.0.99迄の主な概要

実行委員会ではVo1.0のスタート以来、半年から1年弱の間隔で屋内フェス開催を続けてきた。

 
 
 
 
予想を大きく下回った屋外での初開催

実行委員会の前に立ちはだかる「男鹿の壁」
 
 平成22(2010)年7月24日。男鹿総合運動公園の野球場には巨大なステージ、音響設備、照明装置が現れた。実行委員会は、市民文化会館での屋内イベントとはまったく勝手が異なる状況に翻弄されながらも、「男鹿ナマハゲロックフェスティバルVol. 1」の開幕にこぎつけた。
 
 男鹿フェスVol.1は、ORANGE RANGE、サンボマスター、山嵐といったラインナップを揃えるが、目標としていた5,000人を大きく下回る3,000人しか動員できなかった。実行委員の主要メンバーは「小ホール時代の赤字とはケタが違う赤字」(菅原氏)を抱えることになったのだ。
 
「初めての屋外をやってみて、『男鹿の壁』があることを実感しました。男鹿は遠いという壁。その壁にはずいぶんと悩まされていきます」と吉田氏は語る。
 

初の屋外開催を実現した男鹿フェスVol.1。芝生のある野球場での開催は来場者からも好評だった。

プロが満足するステージを用意したことで、

アーティストファーストの方針を得た実行委員会
 
 赤字を抱えたままではやめられない。平成23(2011)年7月30日、「男鹿ナマハゲロックフェスティバルVol.2」が開催された。会場は現在の船川港埠頭へと移った。三方を海に囲まれた男鹿らしいロケーションでの公演が実現した。ただ、ラインナップにMONGOL800、Dragon Ashを擁しながらも、動員はまたしても3,000人止まり、目標の5,000人には達しなかった。累積の赤字を広げることになるが、菅原氏はあることに気づく。
 
 男鹿フェスでは、市民文化会館で開催していた時期から、ステージ回りの音響、照明、進行についてはプロのイベンターに依頼していた。自分たちでやればコストは抑えられるが、事故が起きる可能性が高まる。アーティストの機材交換などステージの転換がうまくいかなければ時間が押してしまう。イベンターへの依頼は、そういったリスクを避けるための方策だったのだ。当然、男鹿フェスVol.1でもイベンターにステージの設営を発注した。菅原氏は当時の状況をこう説明する。
 
  「初の屋外だったVol.1では大規模なステージを設営しました。今思えばあそこまでの規模は必要なかったし、もっと抑えれば赤字の幅も小さくて済んだかもしれません。こちらも経験がなかったので、イベンターに任せたのですが、結果として、あの規模のステージを用意したことはアーティストに好評でした」
 
 男鹿フェスではアーティストのブッキングを、山嵐の武史氏の協力の下、菅原氏自らが行っている。フェスを続け、動員力のあるブッキングを可能にするには、アーティストに「男鹿でまたやりたい!」と思ってもらえる環境を整えることが重要だ。プロが満足するステージがその要因のひとつであることに菅原氏は気づいたのである。こうして、男鹿フェス実行委員会は「アーティストファースト」(アーティスト第一主義)によってラインナップを強化する方針を得た。
 
 

男鹿フェスVol.1のステージとPAブース。
本格的なステージを準備したことで、アーティストたちから信頼を得た。
(男鹿ナマハゲロックッフェスティバル 公式サイトより http://onrf.jp/milestone/vol1/ )

 
 
もてなしの心でアーティストを迎え
出演者との間に喜びの連鎖を生み出していく
 
 男鹿フェスに出演するアーティストにとって嬉しいのは、まずステージそのものだ。会場となる船川港埠頭のステージは三方を海に囲まれており、アーティストは海に向かって演奏をする。音の抜けがよく、非常に気持ちよく演奏できるのだ。
 
 バックステージも重要だ。アーティストたちが出番を待つ楽屋には、ケータリングの料理が並び、バーベキューセットが置かれている。再会を喜ぶアーティストたちが男鹿の地元の料理を肴に酒を呑み交わすのである。
 
   本番の終了後は近隣の和食料理屋で打ち上げも用意されている。昔ながらの宴会場にはステージがあり、楽器が置かれている。打ち解けたアーティストたちは楽器を手にし、豪華なコラボレーションが繰り広げられるのだ。
 
  「アーティストに気持ちよく過ごしてもらう。そうすると、またアーティストの仲間がフェスに出てくれる。そういった喜びの連鎖がフェスの運営には重要だと感じています」(菅原氏)
 
   平成28(2016)年7月開催の男鹿フェスVol.7で初のチケット完売(2日目)が発表されたとき、あるバンドのメンバーが「完売になって、出演者たちがすごく喜んでいる」と菅原氏に伝えたという。
 
 アーティストにしてみれば、男鹿フェスは年間に行う膨大な数のライブのひとつに過ぎない。しかし、チケット完売に対する喜びの言葉からも、男鹿フェスに対する親愛の情が感じられるのだ。男鹿フェスは実行委員会主催のフェスだが、その中心には確実にフェスを「自分ごと」と感じているアーティストがいるのだ。
 

HEY-SMITHのインスタグラムの写真。観客の向こうには日本海の風景が果てしなく広がる。

 
 

2日間開催とついに達成した単年度黒字
来場者の増加がフェスの「潮目」を変えた
 

副実行委員長の吉田喜継氏。
 フェス実施の実務面で運営を支えるキーパーソンだ。 

 前述した「男鹿の壁」を超えるための唯一の手段は、出演者のラインナップを充実させることだと菅原氏は強調する。アーティストファーストの姿勢も評価され、回を重ねるごとに、ラインナップは充実していった。男鹿フェスVo.3、Vo.4の動員数はともに、4,000人だった。赤字経営は続いたが、その額はどんどん縮小していった。
 
 そして、平成26(2014)年7月開催の「男鹿ナマハゲロックフェスティバル Vol.5」でついに2日間開催を実現する。男鹿フェス常連のアーティストに加えて、若手のアーティストも招聘し、バリエーションに富んだラインナップを組めるようになったのだ。動員は2日間で9,500人。1日あたり5,000人という目標もほぼ達成し、単年度での事業採算もついに黒字となった。
 
 副実行委員長の吉田氏は「2日間開催になって潮目が変わった。それまではどこに行っても否定的だった。それが、色々なところから『がんばってください!』『応援しているよ!』と言われるようになったのです。やはり、目に見えて人が来るようになったことが大きかったですね」と語る。
 
■男鹿フェスVol.1〜Vol.7迄の主な概要

屋外開催になってからは、7月の終わりに開催が定着した男鹿フェス。
平成26(2014)年からは2日間開催になったことで、ベテランから若手までラインナップが一気に充実した。

 
 
利便性の高いフェスを追求し、
「来ない理由」を潰していく
 
「男鹿の壁」を超えるための、もう一つの方策はできるだけ利便性の高いフェスを目指すことだった。
 
 会場である船川港埠頭は、JR男鹿駅から徒歩10分ほどで行ける場所にある。駐車場も会場に隣接する敷地にあるので、徒歩数分でゲートまで辿り着ける。男鹿市までは遠いが、駅や駐車場からの会場へのアクセスは抜群によいのだ。東京や仙台からの宿泊プラン付きバスツアーを企画するとともに、会場と秋田駅、会場と山間部の温泉郷のバス輸送も用意し、遠方からの利便性も高めた。
 
 会場は100m×200mの敷地にステージはひとつだけ。コンパクトな会場だから、飲食や物販のブースに並んでいても、ステージでの演奏を聴くことができる。地面はコンクリートなので足場も悪くない。会場はステージ前のスタンディングエリア、その後方にシートエリア、一番後ろにはテントエリアという構成だ。炎天下のなかの開催だから、長時間立ち続けるのは辛い。椅子やテントを持ち込んで、のんびりと聴くことも可能にして、思い思いの楽しみ方ができるようにした。
 
  「男鹿、そして秋田には、ライブハウスやコンサートに行く文化が浸透していません。『渋滞がひどい』『駐車場がない』など、人は迷ったときに『行かない理由』を探すもの。だから、そういった要因を一つひとつ潰して、できるだけ利便性を高めることで、地元の人々がライブに行く障壁を下げました」(菅原氏)
 
 実行委員会が実施した来場者アンケートによると、男鹿フェスを知ったきっかけは「友人知人」が41.1%のトップ。いわゆる口コミが来場を促しているが、イベント全体での動員が伸びていることからも、来場した人々の満足度が高いと言えるのだ。
 

 

 
会場は男鹿駅から徒歩10分。駐車場も隣接する。
コンパクトな会場でフェスのハードルを下げたことも動員を伸ばした要因。